『人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
こころに望みおこらば困窮したる時をおもいだすべし。
堪忍は無事長久の基
いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて
負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。』
三河国(みかわのくに)とは、
愛知県の中部・東部に位置する
西三河と東三河を指します。
この地方の有名人といったらこの方しかいません。
『徳川家康』
徳川家康は西三河地域の岡崎市にある
”岡崎城”にて産まれました。
”岡崎城”にて産まれました。
幼名”竹千代”
徳川家は元々この地方を拠点とする”松平家” の家柄。
家康は松平家 第8代当主 松平広忠を父に持ち
嫡男「松平元康」として育ちました。
しかし時は戦国の世
彼は6歳の頃より 約13年もの間
今川家や織田家の人質として幼少期を過ごしています。
家康さん、
韓流ドラマも真っ青な壮絶人生
母親とは3歳で生き別れ、父親は家臣の謀反で24歳没。
人質にされたり、誘拐されたり
人質にされたり、誘拐されたり
正室”築山殿”には裏切られて
濡れ衣だった嫡男”信康”まで自害へ追い込む事に
まさに波乱万丈
もう、あまりにも色々あり過ぎて
この時代の人達の精神状態がとても心配です。
この時代の人達の精神状態がとても心配です。
1560年
「桶狭間の戦い」にて、
「桶狭間の戦い」にて、
今川義元の戦死を受け独立し
織田信長と同盟を結び
名を”徳川家康”と改めます。
家康さんはここから長い長い時間をかけて
下剋上を実現させて行くわけですが、
織田信長・豊臣秀吉という三英傑の2人が
”天下統一”を目指していたのに対して
家康が”天下泰平”を望んだことも
きっと幼少期からの境遇があったからでしょう。
なんて
”天下統一”を目指していたのに対して
家康が”天下泰平”を望んだことも
きっと幼少期からの境遇があったからでしょう。
なんて
今さらですが
昔から歴史は大の苦手でした。
昔から歴史は大の苦手でした。
テストなんて捨ててましたし
大人になってようやく
歴史の面白さを知り始めたくらいなのです。
と言っても興味のあるところだけ
そういうわけなので、
歴史好きのみなさん
あんまり突っ込まないよう
どうか寛大な心で読んでください。
どうか寛大な心で読んでください。
さて、
話は変わりますが、
私は23歳の時にイタリアへ渡りました。
と言っても約2年半ほど
初海外&初留学
「イタリア料理をやろうと思うならイタリアに行くべし。」
と言う当時のシェフの言葉を胸に
旅立つ前の約2年間
せっせと資金を貯めることになりました。
名古屋や岡崎のイタリアンで働きつつ、
早朝にパン屋で生地を捏ねたり、
時にはケーキ屋やファミレスや
年末のお歳暮の仕分けバイトやらなんやら、
とにかく体力と時間の許す限り
掛け持ちしながらお金を貯めました。
掛け持ちしながらお金を貯めました。
家族や友人、職場の方等々
本当にたくさんの人達に助けてもらいました。
本当にたくさんの人達に助けてもらいました。
そうして
やっとたどり着いたイタリアの地。
そこで気づいたのは
「私は何にも知らないんだ。」
という事実。
という事実。
もちろんイタリアという国や文化、言葉。
当然、料理だってまだまだ未熟。
何も出来ないからこそ
行こうと決めたのだから。
何も出来ないからこそ
行こうと決めたのだから。
でも、
それ以前に
それ以前に
私は私を知らなさすぎる。
”知らないという事”に
ようやく気付いた訳です。
シェフや先輩の顔色ばかり伺って
ようやく気付いた訳です。
シェフや先輩の顔色ばかり伺って
仕事をこなすことに必死になって
レシピ集めて安心して
オーダーを上手く回せるだけの自分に気づく
内面が 人格が というのはもとより、
自分の住む国、街、故郷について
日本の伝統文化、歴史について
日本の料理 家庭料理しかり
私はどれか一つでも知っていると言えるのだろうか?
そうして故郷を離れて初めて
自分の足元を見つめ直す。
まあ、
急にジタバタした所でどうしようもなく
まあ、
急にジタバタした所でどうしようもなく
少しずつ 少しずつ
進んでいくしかないのですが。
進んでいくしかないのですが。
そして今現在、
あれから結構な歳月が経つけれども
どれほど身になっているのかは甚だ疑問
まだまだ気付けていない事なんて山程ありますし。
あれから結構な歳月が経つけれども
どれほど身になっているのかは甚だ疑問
まだまだ気付けていない事なんて山程ありますし。
それでも
こうしてランチで和食を作ることや
地元の食材を勉強したり
故郷や歴史に関することをより知ろうとしているのは
きっと そういう想いの表れの一つなんだと思ったりもします。
そんな訳で
故郷を知ろうとすると避けて通れないものがあります。
それが『徳川家康』。
松平発祥の地”豊田市”(旧・挙母市)で産まれ、
(ころもし)
(ころもし)
岡崎という地で育った私としては
色々と妄想してしまうのです。
村人その①として
ご先祖様の誰か一人くらい
三河武士として戦に参加したのか?とか
昔遊んだ挙母神社にも、
家康さん訪れたことがあったかなぁ?とか
三河武士として戦に参加したのか?とか
昔遊んだ挙母神社にも、
家康さん訪れたことがあったかなぁ?とか
「この村、全員参加だから。」
って言われて”三河一向一揆”に参加してたかもしれないなぁとか、
私のご先祖様が
一体いつから三河に住んでいたのかなんて分かりませんが
一体いつから三河に住んでいたのかなんて分かりませんが
家康さんと同じ時代
同じ土地で生きていた時があるかと思うと
同じ土地で生きていた時があるかと思うと
もうこれは
「ご先祖様グッジョブ!」と言いたくもなります。
そしてたくさんの人達が
この、平成という時代まで命を繋いでくれたのだから
(むしろこのことに感謝すべき)
(むしろこのことに感謝すべき)
とりあえず私は自分の生を全うしてやろうと思うのです。
平成の村人その①として。
そういえば、
お店を始めた頃は
”幸若舞” 敦盛の一説
「人間五十年、下天の内をくらぶれば~」
という言葉に
とても共感をしていたのですが、
という言葉に
とても共感をしていたのですが、
この西小山で4年間を過ごしてみて、
冒頭の言葉である
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし~」
という言葉の方が
今はすんなりと体に染み込んで来るのです。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし~」
という言葉の方が
今はすんなりと体に染み込んで来るのです。
これは、徳川家康の遺訓として有名なのですが、
ただ、偽物ではないかとも言われています。
だとしても
家康さんの人生や人柄にぴったりだと思うのです。
村人の私が
東照大権現様を語るのは300年早いでしょうが、
村人の私が
東照大権現様を語るのは300年早いでしょうが、
まさに
宮沢賢治じゃありませんが
「そういうものに わたしはなりたい」
と思わずにはいられないのです。
実は今年、
徳川家康 没後400年目に当たります。
家康さんがもし
この400年後の世界を見たら
どう思うのでしょう。
家康さんが生涯掲げた旗印
『厭離穢土、欣求浄土』
そして天下泰平を望むのは
西小山にいる村人その①だけじゃないはず
と、思うのですが・・・。
と、思うのですが・・・。
う~ん。
なんだか
ずい分取り留めもない文を書いてしまいました。
確実に
昨夜「三河物語」を読んだ影響を感じます・・
確実に
昨夜「三河物語」を読んだ影響を感じます・・
徳川家康に思いを馳せるクリスマス・イヴ
もう
オチがどこを探しても見つからない・・
もう
オチがどこを探しても見つからない・・
収拾がつかないので仕事に戻ります。
結局何が書きたかったかというと
やっぱり今年も岡崎に帰れなかった
ただそれだけの事なんです。
これが噂のホームシック?
(イマサラ・・・?)
はい
大変失礼いたしました。
とにかく
ここまでお付き合いいただき
どうもありがとうございました。
それではどうぞ皆様
どうもありがとうございました。
それではどうぞ皆様
良いクリスマスをお過ごしください。
BUON NATALE!!